五月暴動 May Riot 1
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ジャカルタ五月暴動の惨状/May Riot in Jakarta,1998
1998年7月26日(July 26,1998)、Jakarta に入った。あのインドネシアを吹き荒れた五月暴動/May Riot から2ヶ月経った時である。
7月2日、タイに発したアジアの経済危機の影響が、1997年11月に、インドネシアに影響を及ぼし、1月頃から各地でデモ、中国人への暴行、焼き討ちが静かに広がりつつあった。インドネシア人口約2億人の内約8千万人が家族当たり月収入約2千円以下という貧困以下の状況で、1998年末までに1億人になるという予測さえ出ている。
五月暴動は、5月12日、スハルト大統領の退陣要求を掲げて、Jakarta郊外にあるトリサクティ大学での反政府集会の学生に、ゴム弾しか使っていないはずの警官隊から実弾が撃たれ、学生4人が死亡したのが暴動の始まりという。しかし、その後の調べで、実弾を撃ったのは対峙する警官でなくスハルト大統領の娘婿のプラボウォ中将配下の兵士であるという。また、翌日殺された学生追悼集会後のデモ行進を利用した組織的暴動を引き起こした勢力があったとの見方もある。今後解明されよう。
5月12〜15日に起こったじゃカルト暴動は、商店、銀行の略奪、その後の放火、暴行、婦女暴行、殺人を伴う暴動で、その被害者は多数の中国系インドネシア人、特にその女性が含まれている。
- インドネシア全国に600万人の中国系住民が住み、海外に脱出したのは、3万人のみ。
- 現在分かっている範囲で、10才から55才の170人のレイプ被害、20人が死亡。
写真は、被害の一部を撮ったものであるが、電気、食料品、自動車、バイク等の多くの商店、デパート、スーパマーケット、銀行、ホテル、コンドミニアム、アパート、中国人住居が略奪・放火されていた。インドネシアの建物は、日本と違って煉瓦やコンクリートで造られているため、遠くからはその状況は分からない場合もあるが、内部は完全に略奪/robbery、放火/fire されている。Jakarta は、24時間あちこちで燃え続けた。木の家の多い日本で起こっていたら町全体が火の海になっただろう。
- ジャカルタ市内のデパートは、無傷のものもあった、これは、それぞれのデパートが陸軍、又海軍に使って守った。郊外のほとんどのデパート、スーパーマーケット、ショッピングコンプレックスはその方法もなく無惨な姿を残していた。以前、昼食をとったことがあるショッピングコンプレックスも焼けていた。この復旧には、数年かかるだろう。
- 銀行の多くが、特に郊外の銀行の多くが、放火されていた。数年前に火災に遭い、修復したジャカルタ中央駅近くのインドネシア銀行がまた放火されていた。
- 自動車、バイクの店が放火され、数万台の新しいバイクが燃やされた。又道路のあちこちに、自動車が燃やされた跡が生々しく残っていた。
- 以前泊まったことのある Citraland Hotel のある Shopping Complex は無傷であり、その道路一つ隔ててガソリンスタンドがある。このガソリンスタンドは、放火から守るため、札束をばらまいて守ったという。
- China Town の近くに電気店及びショッピングセンターと機械工具関係の団地がある。使い道の分からない機械工具団地は無事であったが、隣接するショッピングセンターは放火されていた。その道路一つへ立てたところにある City Hotel は放火されていた。しかもコンクリートの陸橋は無くなっていた。
- 工場関係は、多くの日系企業があるが、被害は全くなかったようだ。工業地帯がやられていたら、インドネシアは再起不能に近かっただろう。
- 商店、レストラン、オフィス等が略奪・放火され、それにより多くの人が職を失った。悪循環に陥っている。
- 7月に日本から米不足に対する救援が行われたが、その米は庶民の口に届くことはない、と言っていた。また、インドネシアは、もめ不足で、輸入に頼っていると言われるが、実際は必ずしも不足していないという、生産された米を隠匿し、金儲け使われるためという。実際はどうか分からないが、一般の庶民の声である。
ジャカルタ五月暴動の惨状(一年後のジャカルタ)
(May Riot)